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トンとご無沙汰しっぱなしで失礼しました。平素の経路が有楽町〜銀座〜新富町なので、どうしてもこの町に目配りがきかないのですね。更新、遅れていました。
ねえ、編集長、助けてくださいよ。
もうまもなく5月という焦りもあって、その日ぼくが悲鳴をあげると、横で黙々とカメラをいじっていたY編集長が一冊の冊子を投げてよこしました。
『嗜好』という、明治屋本店が出している広報誌の566号(2003/3発行)。自分でネタを探せ、というのです。
で、その中にあった三木卓さんの「懐かしき戦後東京」というエッセイを読み進めるにつれ、ぼくの目が☆になりました。三木さんは詩人、作家。1935年5月13日新宿生まれの三木さんが、早稲田大学の露文科時代に、西八丁堀の食堂の子の家庭教師をしていたというのです。
エッセイには、こうあります。
中年の奥さんが店を切り回していたが、超美人とはいえないまでもとても人柄のいい人で、ぼくが入っていくと必ずコーヒー牛乳の紙蓋を取ったビンを一本渡してくれた。実に親愛感のある微笑でぼくを歓迎してくれた。ぼくはそれほど熱心な家庭教師ではなかったけれど、彼女は優しく迎えてくれた。……今でも彼女の微笑を思い出すと心がポッと暖かくなる……」
その時、その人は40を過ぎていた。ご亭主は海軍の水兵さんだった人で、酒瓶の中に工作で船をこしらえるのが特技とありました。また、銀座から『女王蜂(クイン・ビー)』というキャバレーの大看板の下を通っていった、とも書きます。あるいは今でも、店内にそんな置物を置いたレストランが八丁堀に……どなたかご存知ありませんか?
ところで、大学を卒業した三木さんが就職したのが、当時銀座にあったという石油化学新聞社(今は本社=神田)。
調査部とは名ばかり、新聞の切り抜きをこしらえる仕事で、うつうつとした仕事の中での唯一の楽しみが昼食。給料1万円。「国泰」の50円のラーメン、そして時に豪華な昼食が明治屋ビルの地下のレストランで食べたビーフかつ120円。1954年(昭和29)秋、後の芥川賞作家・三木卓さんはその時24歳でした。
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