
東京駅八重洲北口の北町奉行所跡

有楽町駅前南口の南町奉行所跡
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ご存知の通り、奉行所には南北ふたつあって、遠山の金さんで知られる北町奉行所が呉服橋御門内(いまの東京駅八重洲北口あたり)、大岡越前で知られる南町奉行所が数寄屋橋御門内(いまの有楽町駅南口のあたり)にありました。八丁堀から通うには、北町奉行所の方が通勤の便がよかったんですね。ちなみに1702〜1719年の17年間だけ鍛冶橋に中町奉行所が設置されたこともあります。
「お白州」ということばからは裁判所のイメージを連想させますが、当時の奉行所は裁判だけでなく、いまでいえば警察や消防など行政一般を担当し、総合的な役所だったようです。
この奉行所に通っていたのが与力や同心たち。味わいのある時代小説の書き手・北原亜以子さんの『慶次郎縁側日記〜隅田川』には、主人公の元定町廻り同心・森口慶次郎の入り婿にあたる晃之助が、“勤め先”の南町奉行所から帰宅する様子が描かれていますので引いてみましょう。
数寄屋橋御門外は元数寄屋町で、一丁目から四丁目までの町並みが続いている。(中略)四丁目を抜けて、尾張町一丁目の大通りへ出た。晃之助の帰り道は、尾張町から京橋へ向かい、橋を渡ってから京橋川沿いを歩いて行くと決まっている。
尾張町というのはいまの銀座4丁目〜8丁目あたりのことです。八丁堀旦那衆の通勤路をいまの地図に照らせば、数寄屋橋交差点から晴海通りを銀座4丁目交差点に出て左折、銀座通りをまっすぐ行き京橋交差点を渡ったところで右折‥‥といったところでしょうか。現代の感覚だと築地から新大橋通りに入るというルートも考えられますが、当時は新大橋通りは存在せず、また新富町のあたりはほぼすっぽりと本多隠岐守(近江膳所藩/6万石)の屋敷でしたので物理的に通り抜けできなかったんですね。自然、京橋川や三十間堀が時代劇によく登場するわけです。
ところでこの本多隠岐守という人物、いずれ新富編で取り上げようと思ってはいるのですが、インターネットで調べても資料がほとんど残っていないんですね。これはいずれ京橋図書館の郷土資料室に調べに行かなければ。
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