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第15回「新富復興稲荷神社初午祭」の末尾に、「なお町内には2丁目の築地寄りに新富稲荷神社があり、こちらが町の鎮守さま。新富復興稲荷神社はプライベートな社ということになります」とあります。が、この記事、間違いです。
続く4月の「神輿をかつぎませんか?」(第20回)で明らかなように、新富の氏神さまは新大橋通りを挟んで隣町の湊(みなと)に鎮座まします鉄砲洲稲荷神社。新富稲荷は、その昔当地にあった新島原遊廓ゆかりの神社だったのです。なんと、遊女屋「中万字屋(なかまんじや)」の屋敷神だった「中万字稲荷」がその前身とか。
新島原遊廓。まるで一睡の夢……徒花(あだばな)のように燃えさかり、はかなく消えた紅灯の地です。
江戸時代は滋賀大津6万石、本多隠岐守膳所藩の上屋敷など大名屋敷だった新島原。遊廓は明治初期、築地の外国人居留地設置にともない設けられたものの、経営不振もあって、明治4年7月、わずか2年9カ月で廃止されました。
廓の発起人が新吉原の木下宗四郎と家田弥兵衛(遊女屋中万字屋)。吉原時代は中堅だった中万字屋は、一番手として当地に移転してから大店格となり「廓内随一の面積と建物を誇った」とか。新富町交番の裏手一帯がその中万字屋の敷地だったと言いますから、新富稲荷は栄華の地の片隅で町の興亡をひっそりと見守ってきたのですね。
そして、明治5年2月の「銀座大火」で今の2丁目一帯がほとんど焼失。跡地に新富座が進出し、茶屋や芸者屋、芝居関連の商売そして役者の居宅などが次々と建ち、町の様相が一変しました。
入船方面から新富橋へ。今の新富1丁目と2丁目を隔てる通りが当時「仲之町通り」と呼ばれるメイン通り。中央には桜の木が植えられ、花見時には夜桜見物をかねた人々で大変な賑わいだったとか。また遊廓内には松ヶ根小路、梅ヶ根小路、呉竹小路、桜木小路、花園小路、初音小路など、いかにも風雅な源氏名(げんじな)を冠した小路があったそうです。
昭和57年(1982)に出た『古文幻想』第4号、原田弘さんの論考「新島原遊廓とその周辺」、また川崎房五郎さんがまとめた『中央区内散歩−史跡と歴史を訪ねて−』(平成7年刊)に詳述されています。
土地の古老(?)に指摘されるまでもなく、先入観に頼らず、きちんと調べてから書くのが取材記者の鉄則であったのに。地元の皆さん、読者の皆さん、ゴメンナサイ。
(真之介)
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