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3月4日(木)の「初午」(はつうま)から遅れること約2週間、16日(火)午後3時から2丁目に鎮座まします新富稲荷神社の初午祭が執り行われました。1丁目の新富復興稲荷神社の節分祭、初午祭に続く初春の恒例行事です。
もっとも、季節の変わり目の平日の午後とあって、この日社前に参集したのは神官お二人と、講元の皆さん約20名、そして善男善女予備軍たる幼児連れのお母さんたち10名ほど。1時間たらずで神事を滞りなく終え散会しました。
ところで、新富稲荷の来歴については第36回(2月9日)「嗚呼(ああ)勘違い! 新富稲荷神社の由来」でふれたのですが、この日お会いした町内の生き字引の一人、板倉辰正さん(大正5年生まれ、米寿!)のお話を伺って、さらに補足します。
実は、しばしば引用する参考文献、木村錦花著『守田勘弥』(昭和18年8月、新大衆社刊)に細かな記述があるのを見落としていたのですね。幸い、もう著作権フリー。ふらふら足許の定まらないような記述で恐縮ですが、あらためて「明治は遠くなりにけり」と痛感しつつ、該当個所を引用します。
――同書「新富座時代」の章、642頁より引用(新漢字・新仮名づかいに変更)
その筋向かいに赤丸稲荷と云う土蔵造りの小社があった。今の新富神社がそれかとも思えるが、向きこそ違え、やや同じ位置に祀られていた。この稲荷は島原の全盛時代に中万字楼の入口にあって、中万字稲荷と称したが、同楼が2年続いて大風のために屋根を吹き飛ばされ、多数死傷者を出したところから、これは稲荷を粗末にした祟(たた)りだと云うことで、その後同楼では鄭重に祀り直し、一層崇敬するようになったが、遊郭引き払いの時に、この稲荷だけが取り残されて、ほとんど廃社同様の姿になっていたのを、勘弥がこの地へ守田座を移転さすについて、ある夜枕辺へ白衣の老翁が姿を現し「汝(なんじ)、一社を建て直すにおいては、自火を出さぬよう守護に立つべし」と、夢中のお告げがあった。勘弥は直ちに稲荷の小社を再築したが、赤丸と云う名称は何によったか判然としていない。明治16年11月に一度焼け、こんどは団十郎左団次の主唱で再築に及んだものである。
脇の倉庫には町内の行事用の看板や道具類がびっしり。この神社が町の鎮守様である鉄砲洲稲荷神社の子社にあたることを教えられました。いずれ「赤丸」の由来についても調べ、ご報告したいと思います。
なおついでながら、同書646頁には、この赤丸稲荷の前に座敷一杯仏像を並べた仮名垣魯文の「仏骨庵」があった、とあります。(魯文については第30回「新富猫ものがたり―仮名垣魯文のこと」をご覧下さい)
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