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第55回●酒は新富?<余話3> 幸田文生誕100年

 新聞の書籍広告を見て、今年が幸田文(こうだ・あや)生誕100年と知りました。若い人ならずとも「それ、誰?」というくらい、過去の人だけれど。
 幸田文は1904年(明治37)9月1日、つまり日露戦争の年に文豪・幸田露伴の次女として誕生。47年、父の死を契機に「幸田露伴全集」の編集を手伝ううちに綴った随筆で注目され作家に。柳橋の芸者置屋に女中奉公した時の見聞をもとに書いた長編小説『流れる』や『おとうと』で知られています。

 で、なぜいきなり幸田文なのかと言うと、実はこの人の結婚相手が新川の酒問屋「三橋本店」の三男、三橋幾之介なのですね。
 幾之介は兄二人姉一人の末っ子でしたが、その頃の「三橋本店」の暮らし向きは大店そのもので、男の兄弟は揃って幼稚舎から慶応育ち。幾之介は大学を出た後、アメリカのプリンストン大学に留学し、当時アメリカで発達していたチェインストアのシステムを酒の販売に採り入れたい考えをもっていたそうです。
 アメリカ的な雰囲気を身に付けた若旦那。結婚1周年の記念日のプレゼントがピンクのカーネーション3本。物足りなく思ったものの、花瓶に活けようと文(あや)がリボンを解くと、花を束ねていたのは真珠の指輪。思いがけない贈り方です。しかも、
「どう、いいだろ?」と幾之介は英語で言った、と幾之介・文の一人娘、青木玉さんの随筆集『帰りたかった家』に紹介されています。
 新川の酒問屋のリッチな暮らしぶり。しかし1928年に二人が結婚してほどなく婚家は傾き、36年から文は築地、ついで八丁堀で小売の酒店を始めます。

 八丁堀の広い道路(今の昭和通りか)に面して小さな酒屋の店を持った。(中略)
 少しでもいいものを安く飲ませたいと、母は思って、魚河岸に酒の立飲みをする店を出したいと目論んでいた。盛切一杯だから、TもっきりUという、酒屋が出す酒で、飲屋ではないのだ。(『帰りたかった家』1997年、講談社刊)


 結局これは新川の店のメンツで実現せず、38年に病苦と貧困のうちに二人は離婚し、母と娘は小石川の露伴のもとに戻ります。
 でも二人には、日本酒への格別の思い入れがあったようです。
 戦後直ぐ、幸田露伴全集の編集の仕事で行った岩波書店の帰り道。神田すずらん通りの横丁を入った酒屋で「日本盛」の1升瓶を見付けた文は、玉を連れ岩波にとって返し、たまたま居合わせた顔見知りの社員から借金して瓶を下げて家へ帰り、親娘二人でお酒をなめたそうです。(ともに下戸だった)

 あの時、二人をそこまで執着させたものは何だったのだろう。私には父だし、うちのお酒という思いだった。母は実に長い結婚後遺症の苦労から一人立して、鉛筆を握り自分と娘の生活を築きはじめたことへの祝盃であったと思う。(同)

 玉さんは1929年(昭和4)生まれ。医師の青木正和氏と結婚。1990(平成2)年10月に母が没してのち、遺稿の整理と『幸田文全集』の編集に携わる。『小石川の家』『帰りたかった家』など祖父や母への愛情あふれる随筆集ほかがあります。
 長くなりついでに、『帰りたかった家』から拾った思いがけないエピソードを。
 大学卒業後、玉さんは母の仕事を手伝っていたが、ある時新聞の求人広告を見て面接に行った日本橋の会社が、何とあの横井英樹のメリーカンパニーという会社で、面接とは名ばかり、実は自分の「嫁探し」のようだったとか。




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