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有楽町から新富、そして巣鴨へ。
揺籃期の社会主義団体である平民社は警察による弾圧によって家主から立ち退きを迫られ、転々と事務所を移るのですが、堺利彦(=枯川)が書き継いだ「平民日記」には、その間の事情や新富時代の編集局の雰囲気を窺わせる記事があります。
「前々号の本紙において発表せられたる日刊平民新聞の計画は、その後着々として進行しおれり。 発行所の家屋は少しくはばかるところありて、いまだその所在を明記することをえざれども、来たる22日をもっていっさい引き渡しを了するはずなり」(明治39/11/15「光」第1巻第27号)
これは「同志諸君に告ぐ 日刊『平民新聞』の発行について」と題する直前の呼びかけ文(明治39年10月25日)。発信元は東京市神田仲猿楽町20番地豊生軒内、平民社仮事務所。ここではまだ新富事務所は伏せられています。
翌明治40年1月15日、日刊『平民新聞』発刊。同紙連載の「平民日記」から関連事項をいくつか拾ってみました。
「東京諸新聞の編集部はたいてい少なきも3〜40人、多きは6〜70人をもって組織しているのに、平民新聞はわずかに14人でやっている。」(明治40/1/30 第11号)
「午後の3時ごろ、表の方にドドドドーという恐ろしい響きがして平民社が振動した、何だろう?と考えるまでもなく例の自動車なることがわかった。はなはだしゃくにさわる。」(明治40/2/22、第31号)
「今日はいよいよ春めいた天気となった。隣の新富座の庭に稲荷祭りの神楽の仮舞台ができた。しかもそれが編集局の真正面にあるのだ。」(明治40/3/19 第52号)
「今夜はお隣の新富座の伊井蓉峰(いいようほう)君から招かれて、霞外と旭山とぼくと3人で見物に行く。旭山は河合武雄が好きで一度見たいと言うのだ。」(明治40/3/29 第61号)
この夜の芝居の一つが泉鏡花の『滝の白糸』。翌日には、「なかなか面白いところがある。(略)予はその時だけ……覚えず少しまぶたをぬらした」と記しています。金欠病と少数精鋭で多忙の中にも、それなりに優雅な時を過ごしていたようです。
もっともここで興味深いのは、2月22日の記事。「表の方にドドドドー」とは、ちょうどこの頃東都を走り始めた自動車に対する反応。
前屋毅さんという人が某輸入車販売店のサイトで連載していた「輸入車事始め」によれば、「多くの日本人が初めてクルマを見たのは、1903(明治 36)年に大阪で開かれた第 5 回内国勧業博覧会でのこと」、また輸入車購入のハシリが「東京銀座の亀屋、日本橋の三越」という当時の西洋食料品店と呉服商であったと紹介されています。
まだ人力車や荷馬車の時代に、今の平成通り(旧・桜橋通り)を走り抜けるクルマへの庶民の驚き、そして堺のいまいましげな顔が目に浮かぶようです。
ちなみに写真は、1902年、亀屋が日本で初めて商品搬送に使ったという自動車です。
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