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新富町における平民社の足跡を追っているうちに、あらためて「一夜漬け」の悲哀を痛感する記述に出会いました。
日本の社会主義運動の先駆者とされる枯川・堺利彦が「日本共産党事件」で禁固10月の刑を受け服役中に書いたとされる「堺利彦伝」。その一節「第4期 二度目の東京時代」(全集第6巻所載)に、堺利彦と新富町との浅からぬ縁が綴られているのです。
多分その年の暮れ、わたしは父と共に新富町の駿河屋(するがや)という下宿に移った。まだどうしても家を持つ準備が整わないのであった。駿河屋は下宿というよりはむしろいなか向きの商人宿といったようなかっこうで、あまり晴れ晴れしない家だった。……(「4 父の死」から)
明治28年(1896)9月、1月に母の死を見送った枯川は「実業新聞」に入り、父と共に上京。一時期、次兄が下宿していた京橋南紺屋町(「今、実業之日本社のある所」との注があります)の「梅が枝」という産婆の家の1室を間借りした後、暮れになって新富町に移ったのです。時に25歳。
近所には文芸結社・落葉社の仲間である小林蹴月の家はじめつきあいのある家が少なくなく、枯川や「都新聞」の記者をしていた兄ともども世話になったそうです。
翌29年2月28日、脳溢血で父は急逝するのですが、ちょうどその頃、友人の妹・美知子との縁談がまとまっており、4月には結婚し築地2丁目に新居を構えています。
翌5月、「福岡日日新聞」に職を得て、福岡市に転居。慌ただしい足取りですが、新富町と平民社を結ぶ縁(えにし)はこんなところにもあったのですね。
さて、父・得司と新富町で過ごしたつかの間の平穏な日々。
……父は決して小言も言わず愚痴もこぼさなかったが(略)、また、その縁側の午後の日だまりに、おりおり小ねこがやって来て、チリチリ、チリチリと、かわいらしい鈴の音をさせて遊んでいるのが面白いと言って、友だちの遊びに来るほど喜んだりしていた。(「4 父の死」から)
どうやら新富は昔から猫と相性がいいようです。それに、堺利彦もまた母親ゆずりで猫をかわいがったそうです。(第1期 豊津時代/上−「7 わたしの母」)
それにしても、調べれば調べるほど、興味深い事実が浮かび上がって来ます。拙速な記事、恥ずかしくてたまりませんが、ご勘弁下さい。堺利彦は大正15年6月20日、自伝の「序」をこう結んでいます。
「……何のために書いたのか、何のためにそれを人様に読んでもらおうとするのか、恥ずかしくてたまらぬという気もしております。」
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