日刊『平民新聞』発行時の平民社が、新富座と小路1本隔てた北側に編集局を構えていたことを第61回「平民社と新富座−1」に記しましたが、幸徳秋水、堺利彦(=枯川)らと伊井蓉峰(いいようほう)や河合武雄(かわいたけお)ら新派の重鎮とされた役者との間には交友関係があったことも堺の「平民日記」から窺えます。
ここであらためて『中央区年表 明治文化篇』から新富座に関する歴史を拾ってみます。
| 明治7年 |
| 12・25 |
守田座が新富座と改称、1月15日から開場、天一坊の実説を演ずるよしと新聞報道 |
| 明治9年 |
| 11・29 |
夜11時、数寄屋町2、まぐさ営業鈴木貞蔵方から出火、火元から新湊町までおよそ27町余、焼失戸数1万戸におよんだ。この大火事で、新富座、中島座などの劇場、入船町のオーストリア公使館、外国人居留地全部が類焼した |
| 12・24 |
類焼した新富座で、本建築のできるまで新富町4丁目の仮屋で興行の手続きをとる |
| 明治11年 |
| 8・11 |
新富座再建の開場式を挙げる。開場式当日、太政大臣以下の大官、貴紳、外国使臣らを招待したのはまさに画期的なことだった |
| 12・24 |
新富座の夜芝居はじまる(東京曙)「新富座の夜芝居は9日よりの処、11日初日にて、入口には新富座の3大字の花瓦斯をつけ、茶屋は一般に仁義礼智忠信孝悌の字を書て、犬子の玉に見立たる丸提灯を暖簾に換て、2階下ともに軒へ掲げ、打水なども行届いて涼しそうなる景気なりし云々」(新聞集成) |
| 明治12年 |
| 7・16 |
グラント将軍を東京市民の賓客として新富座へ招待。この観劇はかつて見ない大仕かけのもので、団十郎・宋十郎・菊五郎・左団次・家橘らの諸優が出演し、「紅葉の橋」という舞踊には、芳町、新橋、柳橋のよりすぐりの芸妓数十人が出演した |
| 9・― |
新富座で、黙阿弥作「漂流奇談西洋劇」を上演。パリ劇場の一幕に、横浜にいるハリーマン一座の外人が出演。外国語のペラペラと、伴奏の西洋音楽には、見物人はあっけにとられた(版画) |