新富座誕生は明治8年9月。新富町は、新富座を中心に茶屋や料亭、芸者置屋、役者宅など色香の濃い里として発展する一方で、ホテルまがいの安宿などもできて犯罪者の潜伏場所になったようで、明治の「3毒婦」の一人と言われた「高橋お伝」も、新富町3丁目(現1丁目)の「行川(なめかわ)ヤス」方に泊まり、犯行の翌々日逮捕された、と原田弘「新島原遊郭とその周辺」にあります。(『古文幻想』第4号 1982刊)
ところで「高橋お伝」って誰? 「毒婦」って何? というのが大方の疑問でしょう。
昨今はこの程度の凶悪犯罪は次から次へとニューフェースが登場しますし、ことさら毒婦があって毒夫がいないのは男女差別だなんていう鋭い指摘(平田由美さん)もあるので、ここは安直に明治の絵草紙流の表現を拝借するだけ、他意はありませんので、悪しからず。それに、今の新富町は健康的な下町で、「犯罪者の潜伏場所」なんていう恐ろしげなイメージはまるでないですよね。
富や力あるいは異性などなど、男の欲望を掻き立てるものは女にとっても同じである。異なるのは、欲望の追求がときに英雄的行為として賞賛される男に対して、欲望をあらわにした女には懲罰が待っている…… (平田由美「毒婦の誕生」から)
というわけで、明治の「3毒婦」とは、他に「夜嵐お絹」「花井お梅」だろうか、あるいは「5人毒婦」が誰かということについては探索未了。
さて、「高橋お伝」は上州利根郡下牧村出身と言いますから、今の月夜野町でしょうか。
17才のとき同じ村の農夫、高橋波之介と結婚。その2年後夫がハンセン氏病を発病、明治5年に夫婦で上京する。その年の9月に夫は死亡。お伝は私娼など職を転々とするが、明治9年8月27日、古着商後藤吉蔵を殺害、2日後の29日に強盗殺人犯として逮捕されています。
明治12年1月29日に東京裁判所で斬罪の処刑を申し渡され1月31日、市ヶ谷監獄で日本の刑罰史上最後となる斬首刑に処せられています。時に29才でした。
しかし今のようにワイドショーや週刊誌がない時代だけに、犯行時は有名人などではなく、2年半後の明治12年(1879)2月1日付で新聞が「昨日東京裁判所にて斬罪の処刑を申し渡された上州生まれの高橋お伝は…」と、いきなり死刑判決を報じ、さらに4日付「浅草の警視庁第五病院で解剖」の記事で死刑執行が報じられるにいたり俄然帝都の話題になったようです。
つまり、お伝が「希代の毒婦」として有名になったのは、処刑後まもなく刊行された絵草紙と、新富座などで上演された芝居によってでした。
書き手は明治の花形戯作者・仮名垣魯文。魯文は処刑からわずか3カ月後、絵草紙『高橋阿伝夜刄譚』(たかはしおでんやしゃものがたり)を刊行、大評判をとります。また同時代の河竹黙阿弥にも『綴合於伝仮名文』があります。
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