
ちょうど60年前の3月10日、 大空襲で東京は焼け野原に
■中央区平和展
開催:3月1日〜3月11日まで (5日・6日は休) 時間:8:30〜17:15 料金:無料 場所:中央区役所本庁舎1階ロビー :日本橋区民センター 1階エントランスホール :月島区民センター 1階コミュニティサロン
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3月1日から区役所本庁舎1階のロビーで開かれている「中央区平和展」。戦後60年の節目ということもあって期待していたのですが、戦争体験の風化もあってか、ささやかな写真パネルの展示でいささか拍子抜けしました。
戦争末期の空襲については一昨年7月、新富篇の第22回「新富町“聖域説”は間違いだった」で 、教育委員会が出した『中央区の昔を語る(8)−小舟町、新富』という冊子の座談会に基づき訂正したのですが、さらに新事実に出会いました。
22回では、こう記しました。
「聖路加病院があったから戦災を免れた」は流言飛語で、伊東写真館の前や旧松竹本社(今の菊正宗ビル)前に爆弾が落ち何人か死んでいること、焼夷弾は各所に落ちたが強制疎開した家を壊してあり消火リレーでどうにか連焼を免れたこと、町内にあった松の湯・般若湯など風呂屋の煙突が狙い撃ちされたことなど、生々しい体験談に反省しきり……
ところが『松竹百年史』の昭和20年の項にはこう記されていたのです。
1月27日には、新富町の松竹本社に直撃弾が落下し、「瞬時にして即死6名、負傷者30名を出し、波多野企画本部長は、その負傷が原因で、まもなく死亡」……
戦意高揚のため被害の実相を過小に報じた戦時下。でも、当事者の記録は雄弁に戦争の悲惨さを書きとどめています。この日は、マリアナからのB29編隊70機が銀座、上野、千住などを爆撃、死者540人、負傷者911人が出ました。
新富町でも「旧松竹本社前に爆弾が落ち」「何人か死んでいる」ではなく、実は「直撃弾が落下し」「瞬時に即死6名、負傷者30名」だったのですね。この落差! 身近な町内ですら真相が隠されていたことにあらためて驚かされます。
ところで東京への初空襲は昭和17年(1942)4月18日。同19年(1944)の夏以降本格化し、昭和20年には元旦未明、浅草はじめ各地で空襲による被害が拡大、やがて死者10万人を超える3月10日の大空襲へと破滅的な歩みが続くのです。
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