
田河水泡夫妻
■田河水泡のらくろ館
〒135-0004 江東区森下3-12-17 江東区森下文化センター内 電話03-5600-8666 都営新宿線・大江戸線 「森下」駅下車、徒歩8分
▽幼年期から青年期を過ごした 江東区にあり、遺族から寄贈 された作品や遺品を常設展示 されています
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「のらくろ」の田河水泡が新富町にいた……という、地元タウン誌の対談記事に触発され、田河と新富の関係を調べ始めたものの、自伝類のどこにもその証左はないのですね。
田河夫妻、そして対談で田河にふれた松永喜久さんが没した今となっては、真相究明の道遠しとなかばあきらめかけていた矢先、『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝』の中にあった思いがけない記述に気がついたのです。
「銀座の裏通りの小さなビルの一室を借り、男二人、女一人が編集、事務、経営を行った」
荻窪時代、売れっ子になった田河のところに少年向け漫画新聞を出そうという話がもちこまれ、昭和12年(1937)に半年ほど「小学漫画新聞」という週刊紙を発刊。スポンサーにして編集長兼主幹が田河、顧問に村岡花子、山中峯太郎ら児童文学作家、漫画を杉浦茂、倉金章介ら若手漫画家が描いていたのです。
後年、クリスチャンになった愛妻家田河の別宅?どころか、漫画週刊紙の編集室が「銀座の裏通り」つまり京橋公園近くにあったのです、きっと。
なぜなら、関東大震災による区画整理やら戦災やらで、昭和31年の町名改称・町区域変更まで、新富1〜2丁目の一部は一時期「銀座東1丁目」に属していたのです。
京橋小OBの松永さんは、旧銀座東1丁目、戦後は新富となったエリアに田河の「小学漫画新聞」編集室があったのを目撃していたと考えるのが妥当でしょう。それで、「『のらくろ』の田河水泡さんも新富町にいらっしゃったんですよ」と言ったのです。
しかし、時局に翻弄され、戦前わずか半年で消えた「小学漫画新聞」の実物がまだ見つかりません。
国会図書館、都立中央図書館、京橋図書館、日本近代文学館、田河水泡のらくろ館……どこにも「小学漫画新聞」はないのです。田河の弟子・杉浦茂の『自伝と回顧』(02/04、筑摩書房)にも、昭和12年5月の「小学漫画新聞発会式」の記念写真はあるものの、やはり「編集室を銀座のビルに置き」とあるだけでした。近々、戦前戦後と「のらくろ」シリーズや自伝を出版し、田河と縁の深い講談社に問い合わせてみるつもりです。
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