調べてから書くか、書いてから調べるか。まるでかつて一世を風靡した「角川映画」そして「角川文庫」のキャッチコピーみたいですが。「読んでから観るか、観てから読むか」……森村誠一「人間の証明」、横溝正史「八つ墓村」等々、映画と文庫がセットで話題になった時代がありました。
実際、ぼくはそんなもどかしい思いで築地警察についてとりあえず書いてみようとしています。
実はノンフィクション作家として著名な沢木耕太郎さんの『無名』(2003/9、幻冬社刊)を読んでいて、思いがけない事実に突き当たりました。沢木さんのお父上が銀座の酒場に通ううちに親しくなった常連客の一人に、小林多喜二(写真)の拷問死当時の築地警察署の課長がいたというのです。
沢木さんは浅沼稲次郎暗殺事件を描いた『テロルの決算』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した第1級のライター。『無名』はその沢木さんが先年脳出血で亡くなったお父上について書いた墓碑銘で、いわば父と息子の自分史の断片です。
その常連の中でも、僕がいちばん親しくなったのは築地署で課長というような役職についている人だった。僕よりかなり年長だったけど、警察の人には珍しく文学が好きで、よく芥川とか谷崎とかの話をしたものだった。(第4章「酒徒」)
2月のある寒い日の晩、その人が店にやってきた。青白い顔をして、黙って何杯か酒を呑むと、沢木さんのお父さんに言ったというのです。「タキジを殺してしまった。タキジを殺してしまった」と。
やがて戦後になり、渋谷駅のホームでその人を見かけたお父上は、一瞬、自分の眼を疑った。その人は、そんな歳ではないのに、髪が真っ白だった……。
小林多喜二が築地署で拷問の末に殺されたのは1933年2月20日。
「もし、その築地署の課長という人が、その日のうちに酒場に来たとするなら、私の父も1933年2月20日の夜には銀座にいたことになる」と沢木さんは記します。
築地署と小林多喜二のことについては築地篇の第13回で少しふれたのですが、当時の「関係者」の証言についていずれ詳しくふれてみたいと考えています。
ところで沢木さんの本籍地は旧築地小田原町1丁目、いまの築地6丁目(聖路加病院あたり)で、新富町にはお父さんの従姉が住んでいたこともあり、5才の冬(沢木さんは1947年生まれ)にはお父さんに連れられ、東銀座の東劇で初めて洋画、ゲイリー・クーパー主演の西部劇「遠い太鼓」を観たなんていうことも書かれています。その記憶力には脱帽です。
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