

聖路加病院の敷地内に立つ 「浅野内匠頭邸跡」と記された石碑
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1月23日(日)は旧暦で言えば12月14日。つまり303年前、元禄15年(1702)のこの日が「赤穂浪士討ち入りの日」です。
日付変わって翌15日午前4時頃に本懐を遂げた義士たちは、6時頃に吉良邸を出て主君浅野内匠頭の墓所である泉岳寺へ向かい、到着が8時過ぎだったとされています。その凱旋コースがまさに新富・築地エリアだったのですね。
そんなわけで新ネタは無いものの、新春の某日、築地に赤穂藩上屋敷跡を訪ねました。時まさに寒中。でもあいにく雪模様ならぬ春めいた陽射しでしたが。
さて、四十七士。一行は本所松坂町の吉良邸(現在は「松坂公園」)から無住の回向院へ向かったのですが入門を許されず、そのまま隅田川東岸を永代橋へ。この付近にあった「乳熊屋」という味噌屋の店主から甘酒をふるまわれたそうで、休息後、永代橋を渡り霊岸島(中央区新川)に出て、亀島川を高橋で渡り、築地鉄砲州の旧浅野家上屋敷(当時は若狭小浜藩酒井氏の屋敷。総坪数8975坪)を遙拝。ここから築地本願寺の脇をかすめ、今の新大橋通り〜昭和通りへ出てから、汐留橋を渡って新橋へ。ここから東海道を南下し、一気に高輪・泉岳寺へ向かったようです。
もっともコースには諸説があり、新富在住、新選組研究の第一人者でもある史家の伊藤成郎(いとう・せいろう)さんによれば、討手の逆襲を恐れ両国橋の手前で二手に分かれ、築地で再び合流したというのです。(『忠臣蔵101の謎』=新人物往来社刊)
しかも伊藤さんが実地検証したところ、吉良邸から泉岳寺までざっと2時間10分だそうです。今度は、雪の日に一度全コースを歩いてみたいと考えています。
注1:乳熊屋の跡地には「赤穂浪士休息の碑」が建っているそうですが未見。
注2:途中の新橋4−31には「浅野内匠頭終焉の地」の石碑が建っています。
注3:東海道の雰囲気を今に残す「高輪大木戸」。ただし、かつて江戸の入り口だった高輪に設けられた交通規制のための門は1724年建造で、赤穂浪士が通った元禄時代当時には存在していなかった。
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