
直木三十五

香西織恵(右)(植村鞆音著『直木三十五伝』から)
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直木三十五は昭和4年10月、京橋区木挽町、いまの新橋演舞場近くに設けられた「文芸春秋社倶楽部」を仕事場とし、同時にその上階を愛人・香西織恵(こうざい・おりえ)との愛の巣としていました。そこは3階建ての日本家屋で、直木と香西、そして菊池寛3人の名義になっており、玄関には3人の名前を連ねた表札がかかっていたそうです。織恵は高松出身のそそたる美女。親戚筋である九段富士見町の茶屋「桜屋」に身を寄せていた時に直木と出会い、惚れられました。
菊池寛の随筆に、こうあります。
「我々の倶楽部と云うものが、木挽町8丁目にある。築地の待合区域のはずれに在る。向う側は、待合である。3階建のヒョロヒョロとした家である。2階3間3階2間である。家賃は3分して、社と自分と直木とで3分の1ずつ出すことになっていた。しかし、それは規定だけで、全部社が立替えて払っていた。」
昭和9年(1934)2月24日夜、直木は結核性脳膜炎のため東大病院で死去、43才でした。通夜は翌25日にこの文芸春秋社倶楽部で、また告別式は26日、当時内幸町にあった文芸春秋本社で行われました。
盟友であり社主であった菊池が翌10年に芥川賞・直木賞を制定したことにより、芥川と並び直木の名もまた後世に残りました。
しかし香西織恵の人生は、ここで暗転するようです。
時を経た昭和35年頃、「築地の古い仕舞屋の四畳半一間でひとり暮しをしていた。彼女の表札の苗字は浅野となっていた」と直木の甥にあたる植村鞆音(うえむら・ともね)が去年著した『直木三十五伝』(文芸春秋刊)にあります。
直木が死んだ時、織恵は8才下の34才。浅野とは、直木の死後しばらく生活をともにしていた作家志望の浅野武夫の姓です。
同じ昭和35年、横浜・富岡の直木の本宅旧居脇に建てられた記念碑には「芸術は短く、貧乏は長し」とあります。ただしこれは、直木の随筆「哲学乱酔」の中の「恋は短く、貧乏は長し」を大佛次郎ら発起人たちが手直ししたそうです。が、織恵にとっては、まさに「恋は短く、貧乏は長し」。
さて二人の「愛の巣」が旧木挽町8丁目のどこにあったのだろうと調べても、区の「中央区ゆかりの文化人」の中に直木の名は見当たらないし、昭和7〜10年の「火保図」でも文海尋常小学校の裏手に「文芸春秋社倶楽部」など見当たらないのですね。地図には竹葉亭、草津温泉(銭湯か?)、また大同用紙店倉庫というのがあるから、あるいはここがそうかもしれない、と考えているのですが……。
ところで直木は「机によりては書けず、臥て書く習慣あり」、しかし速筆で、1時間5枚ないし10枚(400字詰め原稿用紙で)を書いたそうですから、あの「木枯し紋次郎」の笹沢左保氏や十津川警部ものトラベルミステリーの西村京太郎氏の先輩というわけ。
追記 所在地判明しました!
ひょんなところで疑問が解けました。築地にあった直木三十五の仕事場兼愛の巣の所在地です。文芸春秋社倶楽部は昭和4年(1929)10月に落成、木造3階建てで、「木挽町8-1(今の銀座8-20)、区立1中あたり」との記述を1973年に出た『築地警察署史』で見つけたのです。区立1中とは今の銀座中ということになります。
別件の下調べで京橋図書館の地域資料室でぱらぱらとめくっていたのですが、いやはや、まさかこんな形で警察のお世話になるとは! このところ犯人検挙率の低迷で威信低下気味の警察ですが、昔の警察の調査能力は高かったのですね。(2006/05/23)
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